ナンバースクールの偉功を感じて。「熊本大学 第五高等学校記念館」

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image01_2.jpg 「五高記念館」として公開されている赤れんがの建物は、明治22年(1889年)に当時の第五高等中学校本館として建設されたものです。
明治19年(1886年)の「中学校令」により全国を5つの学区に分け、それぞれに高等中学校が設置されました。第五学区(九州七県)の高等中学校として、明治20年(1887年)熊本に置かれたのが「第五高等中学校」です。その後、「第五高等学校」と名称を改め、昭和25年(1950年)に最後の卒業生を巣立たせ、その歴史を閉じるまで63年間この地にありました。
昭和24年(1949年)に創設された「熊本大学」によって、その敷地や建物が引き継がれ、今に至っています。
建物は、同じく第五高等学校の化学実験場や表門(赤門)とともに、昭和44年(1969年)国の重要文化財に指定されました。最初に設置された5つの「高等中学校」の建物が、取り壊されたり、大学の手を離れたりした中で、今も後身にあたる大学が管理?公開しているのが「五高記念館」です。また、そればかりではなく表門から記念館へ続く「サインカーブ」と呼ばれる道も明治22年の建設当時のまま残されており、まさに唯一無二の存在といえます。
明治22年には、熊本で大きな地震が起こっていますが、竣工したばかりの建物はびくともしませんでした。戦災や火災に会うこともなく、広い敷地のおかげで大学の移転も免れ、早い時期に重要文化財に指定されたことで高度成長期に取り壊されることもありませんでした。これは非常に幸運だったといえると思います。

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image02.jpg 五高では、多くの個性あふれる優れた教師たちが教鞭を執り、優れた人材が各界に輩出されました。優れた教師陣の中でも著名なラフカディオ?ハーン(後の小泉八雲)と夏目金之助(漱石)には、数多くの逸話が残されています。
夏目金之助(漱石)は明治29年(1896年)4月から明治36年(1903年)3月まで在籍し、明治33年(1900年)7月まで熊本の地にありました。研究に打ち込む静かな時間を欲しながらも意欲的な青年教師として勤め、学校を休むことがほとんどなかったと伝えられ、勤勉な人柄をうかがわせます。生徒達の求めに応じて特別に行っていた朝の課外授業ではシェイクスピアを取り上げ、大変な人気を博し教室に入りきれないほどの生徒が押しかけたそうです。
夏目漱石よりも一足先に着任したラフカディオ?ハーンは、明治24年(1891年)11月から27年(1894年)10月まで教鞭を執りました。英語の授業内容にも工夫を凝らし、その授業はたちまち生徒達を虜にしたそうです。熱心にとられた生徒達のノートからは、ネイティブらしい表現を伝えるハーンの工夫の跡が見て取れます。ハーンは、五高に息づく質実剛健の気質や質素を愛する心を、“熊本スピリッツ”と名付け、日本の将来に必要な精神であると書き記しています。

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重要文化財に指定された後も、長い間、標本や遺物の収蔵場所となっていた建物が、「五高記念館」として公開されることになったのは平成5年(1993年)のことです。この時は、大学の授業の妨げにならないようにという配慮から土日のみの公開でした。現在のように週日も公開するようになったのは平成18年(2006年)からです。同時に研究員を置き、事務室も開きました。
週日公開によって訪れる人は大幅に増え、ここで過ごした五高生の言葉や創設間もない頃の熊大生の言葉を収集する機会にも恵まれました。
五高生たちは異口同音に「ここで過ごした年月が人生で最も輝いていた」と語ります。また、高度成長期を迎える前の熊大生たちがこの建物に設けられた研究室で火鉢を囲み、焼き芋をほおばりながら夢を語り合った話など、何時の時代も変わらない若者たちの姿を垣間見るようです。
戦後70年を迎える今年、五高記念館では戦争と五高をテーマに展覧会を開催する予定です。
また、来年、再来年はそれぞれ「漱石没後100年、来熊120年」と「生誕150年」という記念年が続き、記念館では熊本の漱石を集大成した展示を企画しています。
建物や展示を通じて日本近代における高等教育の黎明期から成長の歴史と五高が育んだ多くの人材について知っていただくことができますし、熊大生の皆さんには大学の長い歴史や地域との繋がりを再発見していただきたいと思います。
(2015年3月31日掲載)
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